日光の熊楠
2010年 08月 05日
特別企画展準備で忙しかったもので。。。
熊楠は明治18(1885)年と大正11(1922)年に日光を訪れています。
日光から中禅寺湖、湯ノ湖にまで足をのばしています。現在の「世界遺産 日光の社寺」を巡ったのは明治18年になります。このときの紀行文は「日光山記行」として、平凡社の「南方熊楠全集」の10巻、日記は同じく平凡社の「南方熊楠日記」1巻に収められています。大正11年は紀行文を書いておらず、日記のみになりますが、まだ、出版されていません。
さて、今回は時間的制限から中禅寺湖までは足を運ぶことができませんでしたが、将来開催予定(いつ?)の「南方を訪ねてin日光」の下見に行った際の報告です。
熊楠は明治15年7月12日、当時住んでいた東京を出発します。通ったのは日光街道。
「徒歩で千住に至る。・・・・草加駅に至り乗車し、越ヶ谷に至りて下り、また乗車して粕壁(春日部)に達す。」
当時、東武鉄道はもちろんなく、千住-粕壁間の馬車鉄道も開通は明治26年。馬車にでも乗ったんでしょう。
粕壁の後、杉戸駅、幸手駅、と続きますが、駅は宿場の意で使っています。
そして、7月15日宇都宮から日光に入ります。
大正11年に日光を訪れた際、東武日光軌道線(1910-68)の路面電車に乗っています。
日光では会津屋に泊まっています。
「鉢石町の会津屋方に宿す。」
インターネットの検索にかかってきたので、期待していたら、数年前に廃業したようです。残念!!
7月16日、熊楠は日光の二社一寺、ニ荒山神社・東照宮・輪王寺を廻ります。
「神橋、名づけて山すげの橋と名づく。急湍激搏その下を過ぐ、華厳滝の末流なり」
「本宮権現境内に勝道上人笈掛石あり。」
「護摩堂の前に紫雲石有り。勝道、護摩をここに修め、紫雲下り蓋えり、と。その石今草中に埋没し、見るべからざるなり。」
「三仏堂、弥陀、薬師、不動を安ず。身長各2丈(約6m)余。」
現在は、日光三社権現本地仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)という三体の大仏(高さ8.5メートル)と、東照三社権現本地仏(薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来)という掛仏の、2組の三尊仏が本尊として祀られています。
熊楠の記載間違いか?、当時、弥陀、薬師、不動が祀られていたのか?、本尊を見ることができず、案内人が間違ってそのように熊楠に伝えたのか?ちょっと分かりません。
「堂(三仏堂)後相輪塔、すなわち天海僧正の建つるところ、青銅をもって作る。金を鍍することはなはだ厚し。さきに、東照宮中に在り、神仏判分の時これをここに移す。十数日、数千金を費やせりという。」
「東照宮の入り口に大石鳥居あり。黒田長政の献ずるところ、すこぶる壮観たり。」
「五重の塔あり、五智如来を安置す。閣上十二支獣を彫り、各その方位に向かわしむ。」
「二王門(表門、仁王門)を過ぎて三神庫あり、その一、玄象、白象を画す、また壮観と称す。」
「陽明門、一に日暮しの門と称す。その宏麗、注視終日なお尽す能わざるをもってこの名ありという。」
「唐門屋上二竜および一獣、獣の形狻猊(さんげい:中国の伝説上の生物)に同じ、名づけてよう(けものへんに恙)という。」
このあと、熊楠は拝殿に入りますが、撮影禁止です。
「殿を出でて右し、舞屋に如く。ここに宝物を陳列して衆に示す。」
「猫の門、門上睡猫を彫る。この作はなはだよしという。往時この門を称して不明門とし、常に鎖して開かざりしという。
「およそ宮内造構きわめて美、諸侯所献石燈炉はなはだ多し。」
「二王門を出でて右し、二荒山神社に詣す。神前宝物を列す。」
「社(二荒山神社)を出でて大猷院廟に詣す。壮麗東照宮に次ぐ。ただ、その門傍、天王、夜叉、風雷神を安んずるがごとき状貌檸醜、たまたまもって神威を汚すに足る。拝殿構営、また、壮美なり。かくて寓(会津屋)に帰る。」
熊楠にこき下ろされた二天門の持国天(青)と広目天(赤)、背面の風神と雷神
熊楠はこのあと一旦会津屋により昼食を食べ、中禅寺湖に向かいます。
元気やな~ ほぼ20kmあるんですが。。。。。
会津屋跡から、ここまででほぼ2時間かかっています。「熊楠を訪ねてin日光」を実施するにしても、1日ではココまでが精一杯でしょう。もしくはバスに乗って、中禅寺、湯本に向かい要所要所で降りる。どちらかになるでしょう。
【くまちゃん】
by kumagusu-m | 2010-08-05 18:20 | ゆかりの地