杉村楚人冠記念館がオープンしました  

千葉県我孫子市の杉村楚人冠記念館が11月1日に開館しました。

楚人冠、本名は広太郎。

杉村楚人冠とは何者でしょうか?
コンパクトにまとまっている和歌山県のホームページから転載します。

杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん)
明治5年(1872)~昭和20年(1945)
和歌山市生まれ
新聞の発展に大きな足跡を残したジャーナリスト

 明治5年(1872)、現在の和歌山市に生まれる。本名は広太郎。和歌山中学校(現:桐蔭高校)を中退、上京して英吉利法律学校(現:中央大学)、国民英学会に学ぶが、病気のため帰郷。地元の和歌山新報の主筆として健筆をふるう。
 明治27年(1894)同郷の古川老川らと「経緯会」を設立。明治32年には高島米峰らと「仏教清徒同志会」を結成し、雑誌『新仏教』を創刊するなど、仏教界の革新を志す新仏教運動を展開した。
 明治32年(1899)米国公使館の通訳となり、この頃から楚人冠と号するようになった。当時の公使館の職員はシルクハットを常用していたが、シルクハットを入れた箱をみなよく間違えるので、目印のため、「自分のような野人がシルクハットをかぶっているのは滑稽だ」という意味で、史記の故事にちなみ、“楚人冠”と記したことに由来している。
 明治36年(1903)、東京朝日新聞に入社。明治40年(1907)、伏見宮貞愛親王の渡英に随行した際の滞欧日記「随輿記」を連載。この記事が軽妙で独特の批判と皮肉を加えながらも機知に富んだユニークなものだったことから、「新聞記者の目と文人の手を持った作品」と評価され、楚人冠の名が世に知られるようになった。
 明治42年(1909)には、南方熊楠が訴えた神社合祀反対運動を中央紙として初めて取り上げ、熊楠の活動が広く知られる契機を作り出している。
 海外での知見を生かし、我が国初の調査部設置、縮刷版の発行、アサヒグラフの創刊などの新しい取り組みを進め、『最近新聞紙学』『新聞の話』『新聞紙の内外』など、新聞に関する著作を数多く発表、日本のジャーナリズムの発展に先鞭をつけた。昭和12年(1937)には、多数の随筆などを収録した『楚人冠全集』が刊行された。
 新聞の発展向上に大きな足跡を残したジャーナリスト杉村楚人冠は、昭和20年(1945)、73歳で亡くなった。


熊楠とつながりがあったんですねえ~。
では、つながりをみてみましょう。

 広太郎は和歌山城下に明治5年に生まれました。熊楠の5つ下になります。
 ご承知のように熊楠も和歌山城下の生まれです。広太郎は熊楠と同じ雄小学校(現雄湊小学校)に通っていました。松下幸之助も通っていたようです。すごい小学校ですね。
 中学校も同じ和歌山中学(現桐蔭高校)に入学しています。
 武内善信先生もよくおっしゃっていますが、当時の和歌山は紀州御三家のお膝元で、三都(東京、大阪、京都)、名古屋、金沢、鹿児島、広島に次ぐ8番目の大都会でした。今の和歌山からは想像できないほどの大都市だったのです。文化的も成熟しており、お抱えの学者や絵師、儒者などが、明治維新で教師になったり私塾を開いたりしており、こういった環境下で熊楠や広太郎が育ったわけです。熊楠と聞くと熊野の大自然がはぐくんだと勘違いされる方がいらっしゃいますが、実は都会っ子だったんですね。そして、当時の和歌山城下は『和漢三才図会』が、そこここで見ることができる環境だったのです。
 小学校が同じなので、その時から知っていた可能性もありますが、本格的に付き合うのは明治19年2月、熊楠が東京大学予備門を退学し、和歌山に戻ってきてからです。それからアメリカに渡る8ヶ月の間親しく交遊しました。
 二人の間には喜多幅武三郎がいました。広太郎は二歳で父を失ってから、母と共に母の実家、木梨家(木梨医院)に身を寄せました。そこに後に下宿をすることになるのが、熊楠の親友となる喜多幅武三郎だったのです。一人っ子の広太郎にとっては兄同然の存在でした。その繋がりから、喜多幅は広太郎の四男武を養子(後に復籍)にしています。後に父と同じく朝日新聞社で活躍する杉村武です。『南方熊楠百話』(八坂書房)に彼の「素っ裸の南方熊楠翁」が掲載されています。それによると、武は熊楠の息子、熊弥とおないどしでもあり、よく南方邸に遊びに行き、カメをもらったり、飼っているサソリを見せてもらったりしたそうです。


 さて、話は広太郎に戻しますが、熊楠のアメリカ留学中も文通は続きます。
 熊楠が要望したのか、広太郎は熊楠に写真を送ります。
 熊楠は写真を送ってくれたお礼を書き、その中で、「僕の疾を養うて和歌山にあるや、思いをかけし若衆三人あり。一は言わずと知れた羽山蕃次郎、二には利光の平夫ぬし、三はすなわち貴君にて、容をもって鑑を下せば羽山随一、才をもって察を看ればすなわち貴君第一」(明治20年8月25日付)と広太郎の才能をほめています。
 顕彰館には広太郎から熊楠への書簡が20通ほど収蔵されています。また、杉村楚人冠記念館には熊楠から広太郎への書簡が10通ほど収蔵されています。
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【関連0643 杉村広太郎・写真 南方熊楠顕彰館蔵】 
 明治20(1887)年7月18日、アメリカにいる熊楠のところに届いた杉村の写真
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写真の裏書

 明治二十年七月十八日郵着
  ならばうつしゑ
    笑ふておくれ
   綿々恋々如友情 欲鳴不鳴意自嬌
   海山へだてたかひがある
           七月十九日 熊

  杉村広太郎君


 県の紹介にもあるように、広太郎は熊楠の神社合祀反対運動をジャーナリストとして援護しました。中でも有名なのは「引作の大クス」の一件です。

 引作の大クスは、阿田和の大クスとも呼ばれる幹回り15.7m、31.4mの巨大なクスです。三重県南牟婁郡御浜町(明治末期は阿田和村)の引作神社に今もそびえています。
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 明治43年に合祀され、社叢は翌44年から伐採されたようです。いよいよ大クスが伐られるという段になって、それを惜しむ声が持ち上がりました。牟婁新報新宮支局の記者が、「南郡無二の歴史樹、近く伐採されんとす、天下の志士よ、願くは起ってこの大樟樹保護に尽くされよ、時は今也」(明治44年6月27日付)と訴えました。この記事を読み、熊楠はすぐさま当時国の官僚だった柳田國男に三重県知事へのとりなしを頼みました。そして東京朝日新聞の広太郎にも実情を記し、応援を頼みました。両者に贈った歌があります。

柳田へは、
音にきく 熊野櫲樟日の 大神も 柳の蔭を 頼むばかりぞ

広太郎には、
木の路なる 熊野樟日の 大神も 偏に頼む 杉村の蔭

 この手紙を受けて柳田がすぐに動いてくれたのでしょう、7月17日の牟婁新報は、「三重県知事も郡長を通じて保存するよう内訓があった」と報じています。当時の知事は選挙で選ばれたのではなく、国の官僚でした。
広太郎も7月3日付の東京朝日新聞のコラム「五味籠」で、「一般の民が神と仰いでゐる霊木をむざむざと切り倒したりなんかして碌なことがあるものかと熊野辺の人は憤ってゐる」と書いています。こうして、手遅れだといわれた「引作の大クス」は守られたのです。


 このクスは、三重県指定天然記念物で、新日本名木百選にも選ばれています。
 平成19年に大枝が折れ、一部が田辺市に寄贈され、顕彰館の休憩スペースに置かれています。
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右側の大枝が倒れました。上の写真と比べてみてください。
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寄贈された大枝の一部

 ながながと、説明してきましたが、杉村楚人冠記念館開館おめでとうございます。今度、東京へ出張の際はぜひ寄らせていただきたいと思います。

 実は南方を訪ねてin日光のときに寄るつもりだったんですが、オープン直前なので遠慮しました。



【くまちゃん】
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by kumagusu-m | 2011-11-03 19:22 | ゆかりの地

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