シリーズ「日本人は何を考えてきたのか」  

来年1月8日から始まるEテレ(NHK教育)特集 シリーズ「日本人は何を考えてきたのか」の報道資料はここにあります。

明治編 文明の扉を開く
第1回 日本はどこへゆくのか ~福沢諭吉と中江兆民~ 1/8
第2回 自由民権 東北で始まる 1/15
第3回 森と水と共に生きる ~田中正造と南方熊楠~ 1/22 
※取材時のブログはこちら。若干題が変わってます。
第4回 非戦と平等を求めて ~幸徳秋水と堺俊彦~ 1/29

大正編 「一等国」日本の岐路 7月
第5回 東と西をつなぐ ~内村鑑三・新渡戸稲造~
第6回 大正デモクラシーと中国・朝鮮 ~吉野作造・石橋湛山~
第7回 貧困に取り組む ~河上肇と経済学者たち~
第8回 常民の日本を探る ~柳田民俗学とその後継者~

昭和篇 戦争の時代を生きる 2013年1月
第9回 ひろがる民衆宗教 ~出口なお、王仁三郎と大本教事件~
第10回 昭和維新の指導者たち ~北一輝・大川周明と2.26事件~
第11回 京都学派の哲学者と戦争 ~西田幾太郎から三木清まで~
第12回 女性解放運動はこうして始まった ~平塚らいてうから市川房枝へ~

なかなか興味深いラインナップです。
さて、この中で当館に関係ありそうなので、第4回と第8かいでしょうか?

田辺にはかつて『牟婁新報』という新聞がありましたが、この新聞は熊楠の神社合祀の反対運動の記事やその他の記事が載っているからというだけではなく、記者あるいは寄稿者として明治期の著名な社会主義者が関与していたことから、明治期の社会主義運動史のなかでも注目されています。
主幹・主筆は毛利清雅(柴庵)。
毛利は人員不足から東京の知友を頼り、二人の社会主義者を記者として迎えました。堺利彦の紹介で小田野声(頼造)、高島米峰の紹介で豊田狐寒(義三)がそうです。
毛利が社を辞め、東京に遊学すると二人は田辺をさるのですが、翌年複社した毛利は再び堺に記者の紹介を依頼します。そしてやってきたのが荒畑寒村と(勝三)と、管野幽月(スガ)です。荒畑と管野はのちに結婚しますが、荒畑が赤旗事件で服役中、管野は幸徳秋水と同棲します。1910年管野は幸徳秋水らとともに大逆事件で検挙され翌年死刑に処せられます。

柳田国男はいうまでもなく、熊楠にゆかりの深い人物です。

熊楠から「欧米各国みなフォークロア・ソサエティーあり、わが国にも設立ありたきものなり」と呼びかけ、柳田がそれに応えて、草創期の日本民俗学は大きな一歩を踏み出しました。(宇野脩平は、日本民俗学にとって熊楠が父、国男が母であると言っている。)

のちにケンカ別れする二人ですが、熊楠の没後、口をきわめて熊楠を賞賛し、最初の全集の計画を推進したのは柳田国男であした。
熊楠を差して柳田国男は「日本人の可能性の極致」と言ったとよく言われますが、柳田は実際にはこう書いています。
「非凡超凡という言葉を、このごろの人はやたらに使いたがるが、何かちっとばかりはた者と変っているという程度の偉人ならば、むしろ今日はありふれている時代といってもよい。現に私なんかの仲間では、骨を折って最も凡庸なるものを、見つけ出そうとしている。ところがわが南方先生ばかりは、どこの隅を尋ねてみても、これだけが世間なみというものが、ちょっと捜し出せそうにもないのである。七十何年の一生のほとんど全部が、普通の人のなし得ないことのみをもって構成せられている。私などはこれを日本人の可能性の極限かとも思い、また時としてはさらにそれよりもなお一つ向うかと思うことさえある。」(『近代日本の教養人』(辰野隆編)内の「南方熊楠」 柳田国男著)

柳田は熊楠と知り合った当時国の官僚であり、熊楠の神社合祀反対運動にも協力しました。
柳田がいなければ熊野の社叢はもっと破壊されていたでしょう。

顕彰館には柳田から熊楠に宛てた書簡が約80通保管されています。
ほとんどが『柳田国男南方熊楠 往復書簡集』(平凡社)に収録されていますが、収録されていないものもあるんですよね、実は。



【くまちゃん】
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by kumagusu-m | 2011-12-23 15:23 | お知らせ

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