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大高庄右衛門  

今いろいろと調べているのですが、熊楠が1900年にロンドンから神戸に帰る際、大高庄左衛門という人物と一緒になり、頻繁に日記に登場します。八坂書房の『南方熊楠日記』では2巻169,171-5,177という具合です。
また、3巻201頁には大高助右衛門という人物名が出てきます。1908年8月16日です。
しかも、続けてこんな記述があります。
「午後加藤達次郎一寸来る。夜又来る。話に、前年英国より帰る船中予と同船なりし大高助右衛門氏、加藤氏等の監督なりと。にて煉瓦作る会社也。」

へっ?船で一緒だったのは「庄左衛門」じゃないの?

庄左衛門、助右衛門のどちらが正しいのか調べると、コトバンクに似た名前で「大高庄右衛門」を見つけました。

大高庄右衛門 おおたか-しょうえもん
1865-1921 明治-大正時代の技術者。
慶応元年5月4日生まれ。明治19年内閣臨時建築局からドイツに派遣され,煉瓦(れんが)製造をまなぶ。帰国後化粧煉瓦やガス輪環窯を創始した。大正10年5月30日死去。57歳。上総(かずさ)(千葉県)出身。

とあります。
熊楠日記2巻175頁。1900年10月14日の条には「大高氏独逸より将来の秘品をボーイ等に示す。」とあります。

おいおい、庄右衛門はドイツ帰りで、しかも煉瓦の製造習ってるやん。
ということで、大高庄右衛門をもう少し調べると、

「明治18年に硫酸瓶製造会社が煉瓦製造に着手し、明治21年に大阪窯業株式会社が設立されました。明治29年に堺分工場が造られ、この周辺の広大な敷地では、ドイツ留学後の大高庄右衛門らの指導によってホフマン式輪窯にて大量の煉瓦が製造されました。」

との記述を見つけました。こちら

「堺」が出てきましたね。

堺市のホームページ「大浜公園とその周辺の見どころ」を見ると、

7.大阪窯業煉瓦工場之跡の碑
大浜公園の東南に隣接する広大な敷地に、明治21年(1888年)に設立された大阪窯業株式会社の堺分工場が明治29年(1896年)に建設され、近代の土木・建築構造物がコンクリートに取って代わるまで、ドイツのホフマン式輪窯にて大量の煉瓦が製造されていました。
その工場跡地にあった記念碑を隣接する大浜公園内に移設したものです。

とあります。堺に分工場があったのは間違いないようです。
また、神戸大学附属図書館のデジタルアーカイブで、大阪新報の記事が読めるのですが、1918.1.4-1918.1.5(大正7)の新聞記事に

「窯業の現在と将来 (上・下)」大阪窯業会社常務取締役 大高庄右衛門氏談

とあり、大正7年には大高は大阪窯業会社の常務取締役だったようです。

ということで、
熊楠が倫敦からの帰りの船で交流したのは、庄左衛門でも助右衛門でもなく、。「庄左」と「助右」を足して2で割った「庄右衛門」にまず間違いないと思うのですが、いかがでしょう?
大高庄右衛門の経歴を確認できたらいいのですが。。。。

そんなこんなで、なかなかはかどりません。
岩崎先生、もうちょっと待ってくださいね!




【くまちゃん】
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by kumagusu-m | 2014-09-07 17:17 | 人名録 | Comments(0)