<   2011年 11月 ( 10 )   > この月の画像一覧  

神島歌碑  

彼の建碑の件は小生色々懸念致し居り、或は当今有名の文人に書いてもらふべしなど申す人もあれども、小生はそんな無関係の者に書するよりは、小生進んで自ら拙筆ながら字を書き、裏に和歌を一つ
(此所は聖上臨降の地なれば、人斗りでなく吹く風迄も十分注意して吹けといふ意味にて)
かき付んと只今色々考案中に候。

田上次郎吉宛書簡
昭和4年6月26日早朝 (改訂 南方熊楠書簡集 P111)
[PR]

by kumagusu-m | 2011-11-27 12:51 | 熊楠語録 | Comments(0)

神島が天然記念物に指定された後のコメント  

この島の草木を天然記念物に申請したのも、この島になんたる特異の珍草珍木あってのことにあらず。田辺湾固有の植物は、いまや白浜辺の急変で多く全滅し、また全滅に近づきおる。しかるに、この島には一通り田辺湾地方の植物を保存しあるから、後日までも保存し続けて、むかしこの辺固有の植物は大抵こんな物であったと知らせたいからのことである。

※この島=神島

「新庄村の合併について」牟婁新聞 昭和11年8月23日
[PR]

by kumagusu-m | 2011-11-27 12:32 | 熊楠語録 | Comments(0)

学仏の徒  

仏説に樹を植え木を保存するを一の功徳とする。小生は幼少より学仏の徒なれば、愚者の一徳として発起且つ随喜し従事する所ろなり。

昭和11年4月7日 
中山雲表宛書簡(改訂 南方熊楠書簡集 P135) 
[PR]

by kumagusu-m | 2011-11-27 12:26 | 熊楠語録 | Comments(0)

エコロギー  

御承知ごとく、殖産用に栽培せる森林と異り、千百年来斧斤を入れざりし神林は、諸草木相互の関係はなはだ密接錯雑致し、近ごろはエコロギーと申し、この相互の関係を研究する特種専門の学問さえ出で来たりおることに御座候。

川村竹治宛書簡 
明治44年11月19日(『南方熊楠全集』第7巻526頁)   
[PR]

by kumagusu-m | 2011-11-27 12:18 | 熊楠語録 | Comments(0)

大阪大学総合学術博物館 第14回企画展  

10/25-2/4
大阪大学総合学術博物館 第14回企画展
脳の中の「わたし」と情報の中の<私>

開催中!!

当館から所蔵資料の画像を提供しています。

大阪大学といえば。。。。。
医学部所蔵の「例のもの」も展示されているかも。




【くまちゃん】
[PR]

by kumagusu-m | 2011-11-18 13:30 | 関連展示・イベント | Comments(0)

別冊太陽 日本のこころ192号は南方熊楠  

平凡社の『別冊太陽 日本のこころ 192号』は南方熊楠です。
2012年1月19日発売です。
平凡社の別冊太陽のホームページには発売と同時にUPされるそうです。
価格は未定。


同社の『月刊太陽』では、「特集 奇想天外な巨人 南方熊楠」(1990年11月号)として取り扱っていただいていますが、『別冊太陽』では初めてとなります。 

前回ご紹介した『南方熊楠大事典』と迷っている方、こちら(『別冊太陽』)は写真や資料画像をふんだんに使った構成となっていますので、全く異なったものとなるはずです。

それから、
平凡社の熊楠のゆかりの地への取材は、なんと、台風12号の1週間に行われたのです。

台風12号により那智は甚大な被害を受けました。
陰陽の滝は残っているものの、谷は土砂が崩れ、昔の面影(被災後の様子)はありません。
『別冊太陽』には、熊楠がみたであろう那智の風景に近い、それでいて最後の風景がおさめられているはずです。

まあ、熊楠が那智にいたのは明治22年の水害の約10年後ですから、当時は今とよく似た、岩にコケなどの植物があまりついていない風景が広がっていたのかもしれませんが。。。。。。。


まあ、12月から1月にかけて出版、放送ラッシュです。
時期が来たら詳細を報告します。

また、名古屋、東京で関係セミナーも開かれる予定です。
名古屋の方はちょっと苦戦しています。
こちらの講演内容は間違っていますね。
こんな難しい話はしません。







【くまちゃん】
[PR]

by kumagusu-m | 2011-11-17 17:55 | 書籍 | Comments(0)

南方熊楠大事典(勉誠出版)いよいよ発売!   

南方熊楠大事典』が勉誠出版より、いよいよ発売されます。
発売予定は2012年1月。
なんと700ページもの大著。
御値段もそれなりの10,290円。

実は、4年前から「刊行予定」、「刊行予定」と言っていたのですが、ようやく本当に刊行できそうです。
と、いいつつ、事務局は画像を提供したぐらいですが。。。。。。


『南方熊楠大事典』
発行:勉誠出版
松居竜五/田村義也編

●目次
第一部 思想と生活
第二部 生涯
第三部 人名録
第四部 著作
第五部 資料
第六部 年譜

研究者向けと言ってもよいのでしょうか。
コアなファン向けといってよいのでしょうか。
熊楠を知るための辞書的な本としては、講談社の『南方熊楠を知る事典』(1993)が知られていますが、顕彰館開館(2006.5)以前の文献と以降の文献では全く異なります。

南方熊楠の資料は熊楠没後、南方邸の土蔵の中にず~っと保存されていました。
研究者が行って自由に閲覧できる状況ではなかったし、どんな資料があるかなども把握しきれていませんでした。なんと土宜法龍来簡が土蔵ではなく貸家からでてきたりもしたんです。

1987年に南方熊楠邸保存顕彰会(現南方熊楠顕彰会)が設立され、最初の書庫調査が1990年に行われました。その後、南方熊楠資料研究会(現南方熊楠顕彰会学術部)が設立され、1992年から土蔵の資料を調査・研究を行い、2004年に南方熊楠邸蔵書目録、2005年に南方熊楠邸資料目録を発行しました。

2006年5月には南方熊楠顕彰館が、オープンし、土蔵にあった書庫を顕彰館に移し、保存・管理しています。これにより、資料の閲覧(研究用途に限る)が非常に便利になりました。

研究者の資料閲覧も増え、毎年のように関連書籍が出ています。
顕彰会では資料叢書を毎年発行していますし、講演会・展示などのイベントを通しても日々新しい研究がなされています。
顕彰館建設のコンセプトに、「南方熊楠研究の拠点」とあり、南方熊楠研究の中心地として、さまざまな分野の国内外の学者や一般に関心を持っている人々が訪れ、交流できるような施設を目指しています。
実際、研究者間の交流はかなり進んでいると思います。

顕彰館開館後に発行される本書は、最新の研究成果を踏まえたものとなっているはずです!
内容を見ている訳ではないので、断言はできませんが、著者の数人と話をする中では最新の研究成果であることは間違いなし!

御期待下さい。




【くまちゃん】
[PR]

by kumagusu-m | 2011-11-17 17:15 | 書籍 | Comments(0)

西島秀俊さんご来館  

今ホットな俳優、西島秀俊さんが顕彰館に来られました。
某局のテレビ番組のリポーターとして南紀の熊楠ゆかりの地を巡り、最終日に顕彰館での取材となりました。

西島秀俊さん。
そう、「チームバチスタ2 ジェネラル・ルージュの凱旋」の速水医師役といえばお分かりでしょう。
現在は、同じくフジテレビの「僕とスターの99日」で、主役の並木航平役を演じられています。是非ご覧ください。
b0138370_18213242.jpg
南方邸で
b0138370_18214779.jpg
収蔵庫で
※期限につき、写真は削除しました。雰囲気だけでも味わってください。
まったくの奇遇ですが、新規採用で4月に顕彰館に配属された職員が、西島さんのファンだったのです。それを聞いた私は、「おっ、センスいいやん」とか言っていたのです。なにを隠そう、私も「あすなろ白書」以来、西島さんを応援しています。
最近のご活躍から、ようやく彼の時代が来たな!と、思っていたところ、今回の撮影が入りました。
不思議といえば不思議です。

現状ではまだ詳細はお伝えできませんが、某局のお許しがでれば、番宣します。

※画像の使用・転載禁止。



【くまちゃん】
[PR]

by kumagusu-m | 2011-11-15 09:29 | 取材等 | Comments(0)

小泉進次郎衆院議員ご来館  

自民党青年局長の小泉進次郎衆院議員が、台風12号による豪雨で土砂崩れが発生し、家屋が埋没し死傷者が発生した田辺市の伏菟野に視察に来られ、その後顕彰館に立ち寄られました。

小泉議員は、熊楠について非常に興味を持たれていたようで、熱心に資料をご覧になり、活発なご質問をされていました。
b0138370_1628458.jpg
【書斎の前で】
b0138370_16292432.jpg
【土蔵をご覧になる小泉議員】
b0138370_16281150.jpg
【引作大クスの大枝の前で】
柳田国男、杉村孫人冠ゆかりのこの大クスにも興味を持たれていました。

飛行機の時間もあり、ほんのわずかな時間でのご見学だったので、十分なご説明ができなかったのが残念です。

翌日、わざわざお礼のお電話をいただきました。
熊楠についても機会を捉え、話題に上げていただけるとのことです。


次回、来田の折には、温泉にも入っていただき、ごゆっくりしていただきたいと思います。


※写真をご提供いただいた関係各位に御礼申し上げます。
※当会ブログの性質上、政治的なコメントはご遠慮願います。(この記事に関してはコメント不可にします。)



【くまちゃん】
[PR]

by kumagusu-m | 2011-11-10 16:33 | 見学

杉村楚人冠記念館がオープンしました  

千葉県我孫子市の杉村楚人冠記念館が11月1日に開館しました。

楚人冠、本名は広太郎。

杉村楚人冠とは何者でしょうか?
コンパクトにまとまっている和歌山県のホームページから転載します。

杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん)
明治5年(1872)~昭和20年(1945)
和歌山市生まれ
新聞の発展に大きな足跡を残したジャーナリスト

 明治5年(1872)、現在の和歌山市に生まれる。本名は広太郎。和歌山中学校(現:桐蔭高校)を中退、上京して英吉利法律学校(現:中央大学)、国民英学会に学ぶが、病気のため帰郷。地元の和歌山新報の主筆として健筆をふるう。
 明治27年(1894)同郷の古川老川らと「経緯会」を設立。明治32年には高島米峰らと「仏教清徒同志会」を結成し、雑誌『新仏教』を創刊するなど、仏教界の革新を志す新仏教運動を展開した。
 明治32年(1899)米国公使館の通訳となり、この頃から楚人冠と号するようになった。当時の公使館の職員はシルクハットを常用していたが、シルクハットを入れた箱をみなよく間違えるので、目印のため、「自分のような野人がシルクハットをかぶっているのは滑稽だ」という意味で、史記の故事にちなみ、“楚人冠”と記したことに由来している。
 明治36年(1903)、東京朝日新聞に入社。明治40年(1907)、伏見宮貞愛親王の渡英に随行した際の滞欧日記「随輿記」を連載。この記事が軽妙で独特の批判と皮肉を加えながらも機知に富んだユニークなものだったことから、「新聞記者の目と文人の手を持った作品」と評価され、楚人冠の名が世に知られるようになった。
 明治42年(1909)には、南方熊楠が訴えた神社合祀反対運動を中央紙として初めて取り上げ、熊楠の活動が広く知られる契機を作り出している。
 海外での知見を生かし、我が国初の調査部設置、縮刷版の発行、アサヒグラフの創刊などの新しい取り組みを進め、『最近新聞紙学』『新聞の話』『新聞紙の内外』など、新聞に関する著作を数多く発表、日本のジャーナリズムの発展に先鞭をつけた。昭和12年(1937)には、多数の随筆などを収録した『楚人冠全集』が刊行された。
 新聞の発展向上に大きな足跡を残したジャーナリスト杉村楚人冠は、昭和20年(1945)、73歳で亡くなった。


熊楠とつながりがあったんですねえ~。
では、つながりをみてみましょう。

 広太郎は和歌山城下に明治5年に生まれました。熊楠の5つ下になります。
 ご承知のように熊楠も和歌山城下の生まれです。広太郎は熊楠と同じ雄小学校(現雄湊小学校)に通っていました。松下幸之助も通っていたようです。すごい小学校ですね。
 中学校も同じ和歌山中学(現桐蔭高校)に入学しています。
 武内善信先生もよくおっしゃっていますが、当時の和歌山は紀州御三家のお膝元で、三都(東京、大阪、京都)、名古屋、金沢、鹿児島、広島に次ぐ8番目の大都会でした。今の和歌山からは想像できないほどの大都市だったのです。文化的も成熟しており、お抱えの学者や絵師、儒者などが、明治維新で教師になったり私塾を開いたりしており、こういった環境下で熊楠や広太郎が育ったわけです。熊楠と聞くと熊野の大自然がはぐくんだと勘違いされる方がいらっしゃいますが、実は都会っ子だったんですね。そして、当時の和歌山城下は『和漢三才図会』が、そこここで見ることができる環境だったのです。
 小学校が同じなので、その時から知っていた可能性もありますが、本格的に付き合うのは明治19年2月、熊楠が東京大学予備門を退学し、和歌山に戻ってきてからです。それからアメリカに渡る8ヶ月の間親しく交遊しました。
 二人の間には喜多幅武三郎がいました。広太郎は二歳で父を失ってから、母と共に母の実家、木梨家(木梨医院)に身を寄せました。そこに後に下宿をすることになるのが、熊楠の親友となる喜多幅武三郎だったのです。一人っ子の広太郎にとっては兄同然の存在でした。その繋がりから、喜多幅は広太郎の四男武を養子(後に復籍)にしています。後に父と同じく朝日新聞社で活躍する杉村武です。『南方熊楠百話』(八坂書房)に彼の「素っ裸の南方熊楠翁」が掲載されています。それによると、武は熊楠の息子、熊弥とおないどしでもあり、よく南方邸に遊びに行き、カメをもらったり、飼っているサソリを見せてもらったりしたそうです。


 さて、話は広太郎に戻しますが、熊楠のアメリカ留学中も文通は続きます。
 熊楠が要望したのか、広太郎は熊楠に写真を送ります。
 熊楠は写真を送ってくれたお礼を書き、その中で、「僕の疾を養うて和歌山にあるや、思いをかけし若衆三人あり。一は言わずと知れた羽山蕃次郎、二には利光の平夫ぬし、三はすなわち貴君にて、容をもって鑑を下せば羽山随一、才をもって察を看ればすなわち貴君第一」(明治20年8月25日付)と広太郎の才能をほめています。
 顕彰館には広太郎から熊楠への書簡が20通ほど収蔵されています。また、杉村楚人冠記念館には熊楠から広太郎への書簡が10通ほど収蔵されています。
b0138370_195406.jpg
【関連0643 杉村広太郎・写真 南方熊楠顕彰館蔵】 
 明治20(1887)年7月18日、アメリカにいる熊楠のところに届いた杉村の写真
b0138370_195539.jpg
写真の裏書

 明治二十年七月十八日郵着
  ならばうつしゑ
    笑ふておくれ
   綿々恋々如友情 欲鳴不鳴意自嬌
   海山へだてたかひがある
           七月十九日 熊

  杉村広太郎君


 県の紹介にもあるように、広太郎は熊楠の神社合祀反対運動をジャーナリストとして援護しました。中でも有名なのは「引作の大クス」の一件です。

 引作の大クスは、阿田和の大クスとも呼ばれる幹回り15.7m、31.4mの巨大なクスです。三重県南牟婁郡御浜町(明治末期は阿田和村)の引作神社に今もそびえています。
b0138370_1961349.jpg


 明治43年に合祀され、社叢は翌44年から伐採されたようです。いよいよ大クスが伐られるという段になって、それを惜しむ声が持ち上がりました。牟婁新報新宮支局の記者が、「南郡無二の歴史樹、近く伐採されんとす、天下の志士よ、願くは起ってこの大樟樹保護に尽くされよ、時は今也」(明治44年6月27日付)と訴えました。この記事を読み、熊楠はすぐさま当時国の官僚だった柳田國男に三重県知事へのとりなしを頼みました。そして東京朝日新聞の広太郎にも実情を記し、応援を頼みました。両者に贈った歌があります。

柳田へは、
音にきく 熊野櫲樟日の 大神も 柳の蔭を 頼むばかりぞ

広太郎には、
木の路なる 熊野樟日の 大神も 偏に頼む 杉村の蔭

 この手紙を受けて柳田がすぐに動いてくれたのでしょう、7月17日の牟婁新報は、「三重県知事も郡長を通じて保存するよう内訓があった」と報じています。当時の知事は選挙で選ばれたのではなく、国の官僚でした。
広太郎も7月3日付の東京朝日新聞のコラム「五味籠」で、「一般の民が神と仰いでゐる霊木をむざむざと切り倒したりなんかして碌なことがあるものかと熊野辺の人は憤ってゐる」と書いています。こうして、手遅れだといわれた「引作の大クス」は守られたのです。


 このクスは、三重県指定天然記念物で、新日本名木百選にも選ばれています。
 平成19年に大枝が折れ、一部が田辺市に寄贈され、顕彰館の休憩スペースに置かれています。
b0138370_1962767.jpg
右側の大枝が倒れました。上の写真と比べてみてください。
b0138370_1963320.jpg
寄贈された大枝の一部

 ながながと、説明してきましたが、杉村楚人冠記念館開館おめでとうございます。今度、東京へ出張の際はぜひ寄らせていただきたいと思います。

 実は南方を訪ねてin日光のときに寄るつもりだったんですが、オープン直前なので遠慮しました。



【くまちゃん】
[PR]

by kumagusu-m | 2011-11-03 19:22 | ゆかりの地 | Comments(0)