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熊楠映像の発見について  

NHK和歌山放送局で熊楠の映像が発見されました。
「熊野路」と題された映像の中に20秒ほど熊楠の映像が映っています。
野村益三子爵が撮影したものです。

野村益三 (のむらますぞう)
1875−1959
1875.3.5東京生まれ。野村靖の嗣子。1904.3東京帝国大学農科大学卒。和歌山県立粉河中学校教諭、1909.2襲爵(子爵)。1910年ドイツ留学。1911.7貴族院議員に就任し、1946年まで在任。教科書調査会副会長、帝国水産会長、産業組合中央金庫、大日本育英会各評議員、国語審議会委員、北支那開発株式会社監事等を歴任。1959.12.25死去。(国立国会図書館HPより)

野村益三は昭和10年5月18日南方邸を訪問し、熊楠と会っています。
翌19日の大阪毎日新聞に

薫風の 紀州沿岸 野村子の称賛
帝国水産会長野村益三子は17日夜白浜温泉白良荘に投宿、18日県水産試験場、南方熊楠翁を訪ひ、湯の峰温泉に向つた。旅行家として幾多の旅行記の著述のある野村子は語る。
私はこの23年内地沿岸をずつと歩いてゐるが、紀州沿岸だけはみてゐないので、これで内地の沿岸は一巡するわけである。こちらへ来る汽車の沿線は、住宅や田畑の状態が非常にゆつたりとしてゐて気持がよい。そして柑橘の花の香が汽車の中まで高く、薫風四国に達するといはれてゐるが、これでは実際四国まで薫つてゐるかも知れぬと思つた。

とあります。

熊楠の日記では
11時45分に起床。
12時45分に毛利柴庵が来訪。
1時3分に野村益三と県職員の谷口毅一が自動車で来る。
3時50分野村、谷口が湯の峰に向かう。
4時10分毛利が去る。
となっており、約3時間南方邸に滞在していたようです。

さて、熊楠は昭和9年12月、新庄村(現田辺市新庄町)らの人々とともに、神島を国の天然記念物にするため申請書を県を通じ国に提出しています。
野村から熊楠に来た手紙をみると、

昭和10年7月22日
拝啓 其後御起居如何に入らせられ候哉
さて本日局長並三好氏に面談承及ひ候事は
一、三好氏は八月上旬、神島のみに限り出張、

二、該島はすでに仮指定に相成居る事故、調査会の方は勿論無異議決定すべく

三、本指定の発令は、毎年明治天皇聖蹟発表の期限たる十一月三日以後たるべく

・・・・・・

と神島の指定について、野村に問い合わせたようです。
三好氏とは、天然記念物保護に尽力した東京帝国大学名誉教授三好学のことです。
三好は手紙の内容通り8月5日に南方邸を訪れ、熊楠らの案内で神島を調査しています。
その後、昭和10年12月24日、神島は国の天然記念物に指定されました。

また、熊楠は野村益三に安藤蜜柑を送っていたようです。

昭和10年12月3日
・・・・・・
さて又昨日は御心入り之珍果数々到来、一同満悦罷在候 
本日三好、会田、両氏へ裾別致候
・・・・・・

昭和10年11月27日の熊楠日記には、粘菌研究の弟子上松蓊に木箱1、柿20個、安藤蜜柑71個送ったと書いており、翌日の28日には平沼大三郎と野村益三に送ったとあります。
会田は在米時に交流のあった三好太郎です。


◯人物関係
野村は、娘文枝の夫岡本(のち南方)清造の上司だったようです。

清造が水産講習所に勤務していた頃、上司、野村益三(大日本水産会長)の使いで熊楠に電報を打ったことがある。一九三五年十一月のことで、電文は「令息の奇禍同情に堪えず。一日も早く御本復を祈る」。これは、某日熊楠の尿道に家ダニが侵入、発熱により膨張したことを聞いた野村が、お見舞いに打電させたものである。それとは知らぬ松枝は、電文を一読、京都・岩倉病院に療養する熊弥の身になにか災難があったことを、家人より先に野村が知って打電したものと解釈し、大声をあげて泣く声に、昼寝の熊楠が目を覚まし、「令息」の意味を説明してやっと落ち着いたという一幕があった。清造はこうして南方家と結婚以前から奇しき縁で結ばれていたのだった。『南方熊楠を知る事典

次に、ウィキペディアの内容ですが、
柳田國男の弟松岡静雄の妻初子は野村益三の妹(野村靖五女)になるとのことです。
要するに野村と柳田は義理の兄弟ということになります。

また、
震災後(関東大震災)は鵠沼西海岸に居を構え、神楽舎(ささらのや)と名付けて言語学、民俗学を研究し、同じ軍人出身の「岡書院」店主岡茂雄の勧めもあり、十数年で多くの著作を残した
との記載もあります。


現在刊行されている『南方熊楠日記』には野村益三の名はありません。
大正3年以降に野村と知り合ったと推察できるのですが、柳田國男、岡茂雄どちらを介して知り合ったのでしょうか?
はたまた全く違うルートで知り合ったのでしょうか?
興味は尽きません。

なお、NHKのニュース映像は「わかやまアーカイブス 野村益三」で検索するとヒットします(2015.12.6現在)。


◯調査協力
岸本昌也
田村義也
HNK和歌山放送局
(敬称略)

みな様ありがとうございました。
いずれ、熊楠ワークスに載るでしょう(笑)




【くまちゃん】
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by kumagusu-m | 2015-12-06 16:31 | お知らせ | Comments(0)

越前町立福井総合植物園  

重要案件?があり、越前町立福井総合植物園に行ってきました。
高速が通ったとはいえやはり遠いですね。

越前(福井藩)の藩祖は結城秀康。
第二代将軍秀忠の兄でありながら、秀吉の養子に出されていたため、後継者にはなれなかったとも言われています。紀州藩祖頼宣は家康の10男。福井はお兄さんの藩ですね。
ちなみに高野山奥之院にある結城秀康の墓(松平秀康及び同母霊屋)は重要文化財で、世界遺産の記念工作物にもなっています。

話はそれましたが、協議後植物園の建物と庭を視察しました。
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でっかい行幸啓記念碑
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山本幸憲先生の変形菌標本
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顕彰館にもこれをつくりたいなあ
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参考までに、こちらは国立科学博物館のもの

顕彰館も模様替えして、変形菌コーナーを作りたいと思ってます。
思っているだけですよ。
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3階の温室のサボテン




【くまちゃん】
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by kumagusu-m | 2014-12-04 16:49 | 視察 | Comments(0)

大高庄右衛門  

今いろいろと調べているのですが、熊楠が1900年にロンドンから神戸に帰る際、大高庄左衛門という人物と一緒になり、頻繁に日記に登場します。八坂書房の『南方熊楠日記』では2巻169,171-5,177という具合です。
また、3巻201頁には大高助右衛門という人物名が出てきます。1908年8月16日です。
しかも、続けてこんな記述があります。
「午後加藤達次郎一寸来る。夜又来る。話に、前年英国より帰る船中予と同船なりし大高助右衛門氏、加藤氏等の監督なりと。にて煉瓦作る会社也。」

へっ?船で一緒だったのは「庄左衛門」じゃないの?

庄左衛門、助右衛門のどちらが正しいのか調べると、コトバンクに似た名前で「大高庄右衛門」を見つけました。

大高庄右衛門 おおたか-しょうえもん
1865-1921 明治-大正時代の技術者。
慶応元年5月4日生まれ。明治19年内閣臨時建築局からドイツに派遣され,煉瓦(れんが)製造をまなぶ。帰国後化粧煉瓦やガス輪環窯を創始した。大正10年5月30日死去。57歳。上総(かずさ)(千葉県)出身。

とあります。
熊楠日記2巻175頁。1900年10月14日の条には「大高氏独逸より将来の秘品をボーイ等に示す。」とあります。

おいおい、庄右衛門はドイツ帰りで、しかも煉瓦の製造習ってるやん。
ということで、大高庄右衛門をもう少し調べると、

「明治18年に硫酸瓶製造会社が煉瓦製造に着手し、明治21年に大阪窯業株式会社が設立されました。明治29年に堺分工場が造られ、この周辺の広大な敷地では、ドイツ留学後の大高庄右衛門らの指導によってホフマン式輪窯にて大量の煉瓦が製造されました。」

との記述を見つけました。こちら

「堺」が出てきましたね。

堺市のホームページ「大浜公園とその周辺の見どころ」を見ると、

7.大阪窯業煉瓦工場之跡の碑
大浜公園の東南に隣接する広大な敷地に、明治21年(1888年)に設立された大阪窯業株式会社の堺分工場が明治29年(1896年)に建設され、近代の土木・建築構造物がコンクリートに取って代わるまで、ドイツのホフマン式輪窯にて大量の煉瓦が製造されていました。
その工場跡地にあった記念碑を隣接する大浜公園内に移設したものです。

とあります。堺に分工場があったのは間違いないようです。
また、神戸大学附属図書館のデジタルアーカイブで、大阪新報の記事が読めるのですが、1918.1.4-1918.1.5(大正7)の新聞記事に

「窯業の現在と将来 (上・下)」大阪窯業会社常務取締役 大高庄右衛門氏談

とあり、大正7年には大高は大阪窯業会社の常務取締役だったようです。

ということで、
熊楠が倫敦からの帰りの船で交流したのは、庄左衛門でも助右衛門でもなく、。「庄左」と「助右」を足して2で割った「庄右衛門」にまず間違いないと思うのですが、いかがでしょう?
大高庄右衛門の経歴を確認できたらいいのですが。。。。

そんなこんなで、なかなかはかどりません。
岩崎先生、もうちょっと待ってくださいね!




【くまちゃん】
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by kumagusu-m | 2014-09-07 17:17 | 人名録 | Comments(0)

兵生  

2014年1月24日
 田辺市中辺路町兵生の調査に行ってきました。
 「ひょうぜい」ですが、「ひょうぜ」という場合もあります。

 兵生は富田川の最上流にあった集落で、明治22年までは、戸数35戸、150人ほどの村で、その後二川村となり、昭和21年に中辺路町となりました。昭和49年には過疎化のため集団移住し、今は誰も住んでいません。

 熊楠は明治43年と昭和4年の2回この兵生を訪れています。

 昭和4年は門弟の小畔四郎の採集につきあっただけで、2泊3日で引き揚げていますが、明治43年は11月13日から12月24日まで長期に渡って滞在し、植物採集をしました。
 小畔には「坂泰官林の近くに人家は一軒もない。一里半か二里ほど下流に集落はあるが旅客を泊めるような家は一軒もない」と手紙を書き、明治期に宿泊した西氏宅を紹介しています。熊楠が西氏方に泊まるようになったのは、採集に当たり手引きしてくれた西面(にしお)欽一郎氏の奥さんの実家であったためで、明治43年の採集では、西氏宅に一泊した後、さらに山中深く入り、安堵山のふもとの野川原にあった鈴木製板所の一隅を借りています。

 兵生での熊楠の収穫は熊野丁字ごけをはじめ、粘菌、菌など予想以上のものでしたが、民俗、風習、伝説などでも得るところが多く、後年柳田國男に。『遠野物語』に似せた『兵生物語』を書いて世話になった家へ残してきた、と述べていますが、この『兵生物語』は今日所在がわかりません。

〇南方熊楠日記3(八坂書房より)   
明治43(1910)年
11月13日(日)晴
西面氏と共に立出、・・・予は西面氏と共にすゝみ、つり橋渡るに西面氏予の手引てくれる。兵生に至るに大崩れ辺陰悪呆るゝ斗り也。村に入り一家にて粥食せもらひ、西氏宅に往ば黄昏也。夜西氏来話す。入湯後臥す。
西氏座敷の床の間棚に、天照大神、八幡、春日三神の像及辞、予の舅田村宗造氏筆也。
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中央右寄りに地下とありますが、ここが西氏の家のあった西垣内地区です。
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西垣内地区
この一軒だけが家屋の形をとどめています。
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時の流れに逆らえず朽ち果てた家
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五右衛門風呂
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家の基礎らしきものは各所に残っていますが、移住する際に植えたとされる杉の木が伸びています。
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少し離れたところにある兵生春日神社
集団移住して誰も住まなくなってからも、大事に祀られています。
中辺路町誌によると、熊野の西氏は清和源氏武田氏の流と伝わっているようで、大塔の宮熊野落ちのとき案内にたったとのことです。

11月14日(月)晴
朝九時頃西氏を出、西面氏と出張所にゆく。予一人近所の谷を歩み菌苔蘚少し採る。
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鈴木製板所方面
この先、工事中で通行止めでした。

11月15日(火)半晴、夜雨
ギボン羅馬史を読む。

11月17日(木)雨、午後霰雪少しふる
終日在寓、標品整理。・・・夜ギボン読む。コンスタンチン帝一統に至る。

兵生滞在中、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をよく読んでいたようです。

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『ローマ帝国衰亡史』
The history of the decline and fall of the Roman Empire
洋231.02
表紙がボロボロです。
もちろん熊楠の蔵書です。
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中はそこそこ綺麗です。

11月21日(月)快 暖
朝七時過起、九時半頃寓を出、伊藤半兵衛といふ杣人案内にて安堵峯に登る。絶頂に登り、飯くひ、右の老人一寸一睡の間予歩きまはる。
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安堵山
頂上は植林されていません。
果無山脈を構成する山です。中央下のすじは広域基幹林道龍神本宮線。
実は安堵山は果無山脈最高峰の冷水山とともに奈良県十津川村です。
普通は果無山脈の尾根づたいに県境がありそうなものですが。。。

柳田国男宛書簡 (明治44年4月22日付)
(前略)
西牟婁郡兵生(二川村の大字、ここに当国第一の難所安堵が峰あり、護良親王ここまで逃げのびたまい安堵せるゆえ安堵が峰という、と)、ここにて聞きしに、むかし数人あり、爐辺におりしに、畏ろしさに耐えずみな去り、一人のみ残る。婆来たり、米三升炊げ、という。よって炊ぐうち、熊野道者来たりければ、右の婆大いに惧れ去る。道者右の人を導き安全の所に至らしめ、右の婆は山婆にて米炊ぎ上がった上、汝を飯にそえて食わんとて来たりしなり。われは熊野権現、汝を助くるなりとて去りしという。この話、朦朧として分からねど、かかる話、他国にもあるよう記臆致し候。
 この安堵が峰にいろいろの談あり。みな些断のものに候。兵生の松若とて、生きながら山に入って今に死せぬもののことを伝う。その宅址という地もあり。松若、少小より山中に入り、鹿などをとり生食す。身に松脂をぬり、兵刃荆棘傷つくること能わず、ついに山に入って家に帰らず。人山を行って薯蕷が何の苦もなく地より深く抜き去られたるを見て、その存在を知る。最後に山に入るとき、「もし大事あらば多人数大声にわれを呼べ、われまさに千人の力をもって援助すべし」とのことなり。あるいは言う、有田郡に小松弥助とて平維盛の裔あり。松若その家に遊べり、と(この間非常の深山重畳せり)。明治十二年ごろ、当郡富田村のシャ川という所の僧、兵生にゆき、村社に籠り七日断食し、時々生瓜などを食らうのみ。さて、われ今日松若を招かんとて安堵が峰を望み、「松若やーい」と呼び、村民一同これに和して呼ぶ。婦女、小児は、松若来たるとておそれ、戸を閉じて出でず。件の僧、安堵が峰に今松若現われたり、それそれそこに見えるなどいう。終日呼べども、終に下り来たらず。僧、悲憤、村に帰り死せりという。そのとき大呼せし人、今も存せり。
 『南方熊楠全集 8』(平凡社)より       
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熊楠が飯を食ったという安堵山頂上

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上の2枚の写真は、以前撮影したものです。
今は工事中で兵生から安堵山(龍神本宮線)には行けません。
もともと、安堵山には龍神からの方がアクセスしやすいです。
冬季は通行止めにご注意。

11月26日(土)晴
朝菌二種画く。十二時後、松本勝と山を踰え坂泰官林に居る。西面氏後れ到る。其より山続きに丹生川に趣く。道甚危ふし。途上別に得る所なし。松本氏鼯鼠(むささび)一疋打とる。其尸杉幹穴中に陥りとり出すこと不成。着すれば昏し。入湯の上、西面氏叔父方に宿す。松本氏より野猪肉もらひ食ふ。

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坂泰山国有林の入口です。

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全て植林されているのかと思ったら、かなり自然林が残っています。

11月27日(日)晴
朝飯後西面氏一族と丹生川神社合祀跡の祠を見る。それより西面氏父方にゆき小談し、宿所へ帰り、午飯後、松本、西面、鈴木三氏と生兵製板所へ帰る。途上松本氏サルスベリの木に上り、昨日所銃の鼯鼠取る。坂泰の谷間にて粘菌類等多少とる。

12月10日(土)晴 夜雪
十二時過より鈴木氏と千畳谷に之く。入口より同氏は去る。予晩く迄探し歩き、遂に樅の枯株より熊野丁子蘚六個迄見出す。鈴木氏の咳声をきゝ之に応じ、鈴木氏来る。(是迄同氏柳桜と云所にて丁子蘚捜せしも無りし也。)千畳谷
千畳谷はたぶん千丈谷のこと。
千丈山はありますが、千丈谷は地図上になく、どこの谷かは分かりません。
クマノチョウジゴケは学名をBuxbaumia minakatae Okam. といいます。
キセルゴケ科の蘚です。
minakataeとあるように、発見者である「南方」の名前が入っています。
Okamは岡村周諦です。

1908年12月1日(火) 晴
朝八時頃武住の大黒屋出立、大瀬にてナガエノアヲツヾラフヂを見る。茎如此まきあり。又八丈シダとる。平井川谷にて、前田富蔵四五人つれ田辺より来るにあふ。帽菌二三、粘菌二三とる。朽幹の僵れたるに附るBuxbaumia少々・・・

1910年5月9日(月) 晴
夕岡村周諦氏ハガキ一受。予一昨年十二月一日野中村拾ひ子谷所集蘚新種にBuxbaumia Minakatae Shu. Okam.と命名、近日植物学雑誌で披露の由申来る。北米産B. Piperi Best.に最近き由、又本品は既知種に比して柄甚短く、胞子は既知の最も大なるものゝ二倍以上も有之候云々。

平井川谷、拾い子谷は地図上にありません。

12月11日(日)晴、雪積り氷柱多し、夜大風
夕滝尾谷南側の山腹等を歩む。丁子蘚二顆を得、前後是で十一となる。此如く細き蘚に実少々つけるをとる。夜臥内ギボンを読。

12月12日(月)雪
朝七時頃鈴木達三氏秋津へ帰らんと拵える内大雪、終日多少ふり止まず。
三時過より滝尾谷を上る。途上熊野丁子蘚一とる。是にて十二顆也。

12月15日(木)快 暖
朝十時過起く。十二時より西面氏弟導氏に案内され千石谷に遊ぶ。氏は道中より帰る。

12月18日(日)快 暖
朝十時過起き、午後カドの谷にゆき熊野丁子蘚一つ見出す。それより谷を出、滝尾の上の木小屋迄ゆく。帰れば黄昏也。

12月19日(月)晴
午下起く。午後安堵谷にゆき、紅カヤランを捜すに少々得、又丁子蘚一つ得、是にて十四箇也。

12月21日(水)陰
朝獾(あなぐま)の肉食ふ。
松本勝来る。午後共に滝尾谷を歩し、道作りくれ同人は去る。予丁子蘚多く見出し、西面氏弟呼び、共に四十六箇とる。西面妻君も来り見る。前日来とりし処と合して六十箇也。

12月24日(土)晴
荷物片付け西氏へゆく。

12月25日(日) 
此日西氏方に臥す。夕(?)三人来り話す。予は咳気に当りしならんといふ。

12月26日(月) 
朝西面氏、津本氏二人と西氏宅を出立、福定より大川に出、ハリカネ橋を二人予の前後になり手をひきてわたる。栗栖川に至る前、津本氏は他へとまり、予は西面氏と紅葉屋に宿す。


最後に兵生の様子を
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小串にある小督司を祀る小祠
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かつてのご神木でしょうか立派なクスノキ?がありました。
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棚田もしくは段々畑に植わる杉
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兵生分校
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朽ち果てた百葉箱
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これもかつて校庭だったことを物語っているタイヤ
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おっ明星のyoung song!!
しかも表紙はジュリー

※所有者がいますので、マナーを守りましょう。
落書きしたり、ゴミを捨てたり、家財道具を持ち去ったりするのはもってのほかです。

第38回月例展 熊楠とゆかりの人びと第21回 西面欽一郎・賢輔兄弟
会期:平成26年2月8日(土)~3月16日(日)

で、この調査の成果は出るのか?
乞うご期待!!



【くまちゃん】
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by kumagusu-m | 2014-01-30 11:34 | ゆかりの地 | Comments(0)

栂尾山高山寺  

栂尾山高山寺に行ってきました。
ここは、後に高野山真言宗管長となった土宜法龍が住持を務めたことがあります。

土宜法龍は、熊楠がいわゆる「南方マンダラ」を書いた相手で、高山寺には多数の国宝と共に、土宜法龍宛南方熊楠書簡が保管されています。
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国宝の石水院
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明恵上人の墓
高山寺の創建は奈良時代に遡るともいわれ、その後、神護寺の別院であったのが、建永元年(1206)明恵上人が後鳥羽上皇よりその寺域を賜り、名を高山寺として再興した。
その明恵上人は和歌山の有田川町出身とのことです。


高山寺蔵 南方熊楠書翰
土宜法龍宛 1893-1922



【くまちゃん】
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by kumagusu-m | 2013-05-26 23:05 | ゆかりの地 | Comments(0)

日高川町入野、古田家文書  

日高川町の入野は熊楠の父の実家があるところ。
熊楠も訪ねたことがあります。

入野の古田幸吉は熊楠の従弟で、大山神社の合祀に反対し、熊楠とともに闘いました。
しかし、残念ながら大山神社は土生八幡神社に合祀されてしまいます。

さて、古田幸吉宛熊楠書簡は『南方熊楠全集』に少々、『父 南方熊楠を語る』の中に吉川壽洋先生が紹介したもの80通が載っていますが、紹介されていないものがかなりあることが分かりました。
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大山
この山の中腹にかつて大山神社がありました。
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調査中の田村義也先生
ひきつづき調査を実施します。



もうすぐ募集しますが、今年の「南方を訪ねて」は、大山、土生八幡神社、藤白神社、和歌浦、黒江を訪ねます。
お楽しみに!!

【くまちゃん】
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by kumagusu-m | 2012-09-09 19:46 | ゆかりの地 | Comments(0)

新出資料?  

昨日のこどもの日特別公開で、収蔵庫入室体験で、出してたのは、主に蔵の2階にあった資料なんですが、その中でモンガラカワハギという標本がありました。
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これです。
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没後、5月4日まで、この壺(?)に入ったまま、ずーっと土蔵の中に置いていました。
臭うし、虫がいるかも知れないので。
入室体験が終わって、別の調べ物で1991年に和市博で行われた「南方熊楠とその時代」展の図録を見ていたら、なんと39頁に「魚図」として、この魚によく似た絵があるじゃないですか。
南方文枝氏蔵。
それなら顕彰館資料かも?
探してみるとありました。
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これです。
2枚あります。
どうやら熊弥が描いたようです。
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2枚目です。
こちらが成功したもののようです。
熊楠の書き込みがあります。
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そして裏には熊楠が説明が書いています。

日記(大正11年12月24日~、未刊行)にも、田中孫三郎が網で掬い、宇井縫蔵も見たことが無く・・・・・、とかなり詳細に経過が書かれています。

この標本は貴重だぞ。

ということで、さっそく真空パックをしました。
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ついでにそのたのものも真空パック。

こうして、今も謎がひとつひとつ解けていくのです。



【くまちゃん】
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by kumagusu-m | 2012-05-06 16:34 | 展示・イベント | Comments(1)

陰陽の滝の状況 動画  

10/20
陰陽の滝へ行ったときの動画です。

約2.5倍速です。


決して安全な状況ではありません。
倍速なのですいすい歩いているようにみえますが。。。。

私も安田先生も山&磯歩きには慣れています。


雨が降れば土石流の恐れがありますし、足場も悪いです。
行かれる場合は個人の責任でお願いします。


【くまちゃん】
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by kumagusu-m | 2011-10-22 00:15 | ゆかりの地 | Comments(0)

陰陽の滝  

熊楠が足掛け3年過ごした那智。
今回の台風12号で那智山周辺は甚大な被害を受けました。
那智山まで道路が通行可能となったので、テレビ取材の下見も兼ね、急遽安田先生と那智の陰陽の滝を調査に行きました。
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滝尻の崩落現場
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崩れた土砂の上を整地して仮設道路を舗装していました。
なかなか、やるな!
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志古のウォータージェット船乗り場
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橋にはまだ木がかかっていました
道の駅「瀞峡街道 熊野川」
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いたるところ山が崩れています。川の向こうは三重県ですが。。。。。。
助手席なので当然川向こうの三重県の写真ばかりになります。
和歌山県側も同様にかなり崩れています。
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水を含んでいるのでしょう。崩れたところに新しい「滝」が。
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陰陽の滝の駐車場が使用できないため、大門坂駐車場に車を止めます。
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井関・市野々でもいたるところ崩れています。
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陰陽の滝近くの駐車場(曼荼羅の郷河川公園駐車場)
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車が。。。。
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13:33
箸の上から那智川上流方向
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案内看板
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遊歩道が落ちて流されています。
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ここにも
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しばらく右岸(上流に向かって左側)を歩きます。小さい砂防堤?から左岸(上流に向かって右側)を歩くと歩きやすいです。
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下流方向
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右側のグレーのものがかつての遊歩道。
完全に流されています。
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陰陽の滝方面の谷
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ズーム
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右側の谷
こちらのほうが激しく崩れています。
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いよいよ谷へ入っていきます。

しばらく上ると遊歩道が左手(右岸)に見えてきます。
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手前から歩道に上った安田先生は行き止まりに。
私は崩れてそうな雰囲気だったのでもう少し沢伝いに上ってから遊歩道にのぼりました。
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遊歩道から下流
ここからはほぼ遊歩道を進むことができました。
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陰陽の滝、夜美の滝の看板
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陰陽の滝下流の堰堤
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崩れています。
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案内看板
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夜美の滝
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14:13
陰陽の滝到着
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よかった無事や!

うん?
まてよ!
なにかがおかしい!!


安田先生と持ってきていた写真を確認すると。。。。。

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どこがおかしいか分かります?


そう、陰と陽が反対?
細い滝と太い滝が反対なのです。
太い滝が細くなってしまったために下の石に落ちた水が広がっていないのです。

あと、滝つぼがかなり浅くなっています。
水をせき止めていた岩などが流されたのでしょう。

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滝つぼ
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陰陽の滝から堰堤への道 けっこう崩れています。
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かつて堰堤があった場所
斜めに筋が入っているのが分かるでしょうか?
たぶん下の白い部分が堰堤のあったところだと思われます。
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14:37
夜美の滝
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夜美の滝から下流
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15:07
橋まで戻ってきました。
巻き込まれた車と三重塔
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市野々の土石流
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那智の滝へ
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ここもかなり被害があります。鳥居の向こうが流されています。
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滝見台(そんな名前でしたっけ?)の下も崩れています。
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杉の大木が倒れていました。
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一方滝自体は、幸いにして三筋のままです。
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明るくなった感じです。
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井関地区
井関は土石流により川がせき止められ、集落に流れ込みました。
今はいたるところ整地されています。
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熊楠が歩いた旧道沿いには雰囲気のある建物も多かったのですが。。。。
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歩道を車道に転用しています。

台風12号の被害は甚大なものですが、がんばってまいりますので、ご支援のほどよろしくお願いします。
まずは、和歌山にお越しください。


【くまちゃん】
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by kumagusu-m | 2011-10-21 00:08 | ゆかりの地 | Comments(0)

小畔 小樽勤務付近の経歴  

小畔の経歴について
当館資料では
大正10年1月 日 日本郵船本社遠洋課兼務大連出張所長
大正11年1月 日 帰朝
大正11年3月31日 日本郵船依願退職 近海郵船創立事務
大正11年4月 1日 近海郵船小樽支店長兼函館支店長
大正12年11月 近海郵船営業部長、内国通運常務取締役

となっています。


手紙からすると、赤字の部分、大正11年は12年の誤りですね。
日本郵船小樽支店長は記されておりません。 
確かな筋から入手した資料なんですけど。。。。

記憶に頼った履歴書と手紙では手紙の方が信憑性があります。



【くまちゃん】
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by kumagusu-m | 2011-06-03 10:57 | ゆかりの地 | Comments(0)