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西八王子宮  

西八王子宮
 東八王子社が、明治6年上ノ山東神社と改め、明治40年に出立神社(出立王子)、八幡神社を合祀、稲荷神社を移し、八立稲神社と社号を改めました。さらに明治42年には上ノ山西神社(西八王子)を合祀しました。

 この西の王子の場面に登場するのが、「兵隊帰りの植芝なる豪傑」で、それは西の王子の近くに住んでいた若き日の植芝盛平と思われる。日露戦争に従軍したのち大阪の連隊にいた植芝は、長男なので除隊させてほしいという父親の頼みで、1906年に郷里に帰り柔道の道場を開いていた。当時、植芝はまだ二十代後半であった。
 当町近所西の谷村も社費の件に付き多数は不納説、少数(金持ち連)は利益上より(海藻を取る)今年のみ納むべしとの争いの所ろ、兵隊帰りの植芝なる豪傑の為に打負け不納に決し、小守重保氏に頼み復旧請願書認め中なり。    
(西面欽一郎にあてた1911年1月25日付の手紙)

 後年、合気道の開祖として知られるようになった植芝は、自分が若いころ神社合祀反対運動に参加し、熊楠のもとで奮闘したと語っていたことが多くの伝記に記されているものの、その詳細は明らかでない。1950年ごろ、茨城県岩間に住んでいた植芝をプロレタリア文学者の貴司山治が訪ねたことがある。その時、植芝は、熊楠と自分は「熊よ」「盛平よ」という刎頸の間柄で、二人とも「田辺の町のにくまれ者だった。しかし乱暴なのは五十人力の私よりも学者の熊の方だった」と語ったという(乾元社版全集月報3)。

 1912年1月5日には、熊楠は西の王子の「復社祭り」に招待されている。出席しなかったら、翌日、祭礼のご馳走と鏡餅がとどけられたと日記にある。餅は翌年の祭礼日にもとどけられている。
「南方熊楠 梟のごとく黙座しおる」(飯倉照平著)


 刎頸の間柄と植芝はいいますが、現在のところ、熊楠が植芝について語っているのは後にも先にもこの部分のみです。これらは植芝が大成してから語ったことで、真実味に乏しいものです。

※詳細はこちら

 さて、この西八王子宮ですが、熊楠は「西ノ王子」と呼んでいます。
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 2011年5月にはこんな感じでしたが、
西八王子宮_b0138370_16304435.jpg
2014年にはこのように左側(南側)斜面の木が地滑り防止工事のため切り払われました。
 ちょっと角度が違うので分かりにくいかもしれませんが、かなり展望が良くなっています。
西八王子宮_b0138370_16384653.jpg
 遠くから見ればこんな感じです。
 ちなみに文化財には指定されておりません。
 麓に人家が密集していますし、人命には代えられないでしょう。
 植芝の実家跡もこの麓にあります。

 しかし、伐採されたことにより、いいことがありました。
 熊楠が神社合祀反対運動の際、写真を撮らせたポイントから撮影できるようになったのです。
西八王子宮_b0138370_1644388.jpg
 これが熊楠が撮らせた写真です。
西八王子宮_b0138370_1644963.jpg
 そして、これが2014年7月現在の写真です。
 どうです?
西八王子宮_b0138370_16541368.jpg
 検証写真
 合成してみました。ぴったりでしょう。
 神社の麓は埋め立てられています。また、山がなくなり市営住宅が建っています。
西八王子宮_b0138370_16565198.jpg
 写真裏書
 十四 南方二書十九―二〇頁
  西牟婁郡西ノ谷、西ノ王子合祀跡より田辺
  湾を隔てて瀬戸岬を望む、絶景の地なり。
  右辺の密林ある岬は、目良の王子跡なり。これも
  滅却され、さんざんに濫伐さる。此辺より曲玉等出し
  も散佚す。
  この合祀跡も今に合祀前きの社へ一人もまいらず。
  坊主に経よませ祭典し居る。委細は「二書」で
  見られ度候。

 別バージョンの写真
西八王子宮_b0138370_171133.jpg 

西八王子宮_b0138370_1712275.jpg 
現在
西八王子宮_b0138370_1712830.jpg 
検証

 ちなみに熊楠が「田辺湾を隔てて瀬戸岬を望む」と記しているのは、塔島、番所の崎のことです。
 結構良く写ってますね。





【くまちゃん】

by kumagusu-m | 2014-07-01 17:18 | ゆかりの地

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