サンティアゴ・デ・コンポステーラと熊楠
2014年 05月 16日
サンティアゴ巡礼道は1993年、熊野古道(紀伊山地の霊場と参詣道)は2004年に世界遺産に登録され、和歌山県とガリシア州は98年に姉妹道提携をしています。
さて、サンティアゴ巡礼道と熊野古道この2つの古道を大正時代に比較した人物がいます。何を隠そう我らが南方熊楠です。
大正10(1921)年2月、雑誌『太陽』に連載中の「十二支考 鶏に関する伝説」に、サンティアゴ巡礼道や熊野古道、サンチアゴ大尊者についての論文を掲載します。
熊楠の文は、あちこち話がとぶので、現代人には分かりにくいと思いますので色分けします。
赤は鶏にまつわる話で、サンティアゴ巡礼中の若者が、サンドミンゴ・デラ・カルサダで冤罪で刑死し、生き返った話。青はその別のバージョン。
紺(紫)はサンティアゴ(十二使徒の大ヤコブ)と、コンポステーラの名の由来。
ピンクはサンティアゴと杓子貝の話。
※サンティアゴ・デ・コンポステーラでは、巡礼者らが巡礼の印としてジェームズホタテPecten jacobaeusの殻を荷物などにぶら下げたり、それを象ったバッジを付けたりする。wikiより
◎十二支考 「鶏に関する伝説」 平凡社『南方熊楠全集』2巻 P432~434
耶蘇教国にもややこの類の話がスペインにある。昔青年あり老父母とサンチアゴ・デ・コムポステラへ巡礼に出た。サンチアゴ(英語でセント・ジェームス、仏語でサン・ジャク)大尊者はキリストの大弟子中、ペテロについだ勢力あり。その弟、ジョアンとともにキリストの雷子と呼ばる。のち殉教に臨みこれを訴えし者、そのひととなりに感動され、たちまちわれもまたキリスト教徒なりと自白し、伴い行きて刑に就く。途上尊者に向い罪を謝し、共に斬首された。この尊者かつてスペインに宣教したてふ旧伝あって、835年にイリアの僧正テオドミル、奇態な星に導かれてその遺体を見出してより、そこをカムポ・ステラ(星の原)、それが転じてコムポステラと呼ばれたという。 コムポステラの伽藍に尊者の屍を安置し霊験灼然とあって、中世諸国より巡礼日夜至って、押すな突くなの賑わいいはげしく、欧州第一の参詣場たり。因ってスペイン人は今も銀河(あまのがわ)をエル・カミノ・デ・サンチアゴ(サンチアゴ道)と呼ぶ。これ『塩尻』巻46に、中古吉野初瀬詣で衰えて熊野参り繁昌し、王公已下(いか)道者の往来絶えず、したがって蟻が一道を行きてやまざるを熊野参りに比したとあり。今も南紀の小児、蟻を見れば「蟻もダンナもよってこい、熊野参りにしょうら」と唱うるは、昔熊野参り引きも切らざりし事、蟻群の行列際限を見ざるようだったに基づく。それと等しく銀河中の星の数、言語に絶して夥しきを、サンチアゴ詣での人数に比べたのだ。そのサンチアゴ・デ・コムポステラへ老父母と伴れて参る一青年が、途上サンドミンゴ・デラ・カルザダで一泊すると、宿主の娘が、一と目三井寺焦るる胸を主は察して晩(くれ)の鐘と、その閨に忍んで打ち口説けど聞き入れざるを恨み、青年の袋の内へ銀製の名器を入れ置き、彼わが家宝を盗んだと訴え、青年捕縛されて串刺しに処せられた。双親老いて若い子の冤刑に逢い、最も悲しい悲しさに涙の絶え間なしといえども、さてあるべきにあらざれば志すサンチアゴ詣でを済まし、三人伴れて出た故郷へ二人で帰る力なさ、せめて今一度亡児の跡を見収めにとサンドミンゴに立ち寄ると、確かに刑死を見届けたその子が息災で生きいた。これ全くサンチアゴ大尊者の霊験、世は澆季(ぎょうき)に及ぶといえどもと、お定まりの文句で衆人驚嘆せざるなし。所の監督食事中この報に接し、更に信ぜず。確かに死んだあの青年が活き居るなら、ここにある鶏の焼き鳥も動き出すはずと、言いおわらざるに、その鶏たちまち羽生え時を作り、皿より飛び出で遁げ去った。やがて宿主の娘は刑せられ、この霊験の故に鶏を神使と崇め、サンドミンゴの家々今に鶏毛もて飾らるという事じゃ(グベルナチスの『動物譚原』2巻283頁。参取。『大英百科全書』15巻135頁。24巻192頁)。
サウシーの『随得手録』三輯記する所はやや異なるなり。いわくサンドミンゴ・デラ・カルザダで一女巡礼男に据え膳を拒まれた意趣返しに、その手荷物中に銀の什器を入れ窃盗と誣告す。その手荷物を検するに果して銀器あり。因って絞殺に処せられ、屍を絞架上に釣り下げ置かる。かの男の父、その子の成り行きを知らず、商いしてここへ来ると、絞台上から子が父を呼び留め、仔細を語り、直ちにその冤を奉行に報ぜしむ。奉行ちょうど膳に向い、鶏、一番(ひとつが)いを味わわんとするところで、この鶏復活したらそんな話も信ぜられようと言うや否や、鶏たちまち羽毛を生じて起ち上った。大騒ぎとなってかの男を絞架より卸したとあれど、そのしまいは記されず。ただしその絞架を寺の上に据え、その時復活した白い雌雄の鶏を祭壇の側にやしのうたが、数百年生きていたと。サウシーの『コムポステラ巡礼物語』はこれを敷衍したものだ。件のサンチアゴ大尊者は、スペイン国の守護尊として特に尊ばれ、クラヴィホその他の戦場にしばしば現われてその軍を助けたという。
カムポステラに詣で、これを拝する者は、皆杓子貝を佩ぶ。その事日本の巡礼輩が杓子貝を帯ぶるに合うとは、多賀や宮島に詣る者、杓子を求め帰るを誤聞したものか。英国にも杓子貝を紋とする貴族二十五家まであるは、昔カムポステラ巡礼の盛大なりしを忍ばせる。
昔この尊者の遺体を、大理石作りの船でエルサレムよりスペインへ渡す。ポルトガルの一武士の乗馬これを見、驚いて海に入ったのを救い上げて見ると、その武士の衣裳全く杓子貝に付き覆われいた。霊験記念のためこの介を、この尊者の標章とする由。英国ではこの尊者の忌日、7月25日に牡蠣を食えば年中金乏しからずとて、価をおしまずこの日売り初めの牡蠣を食い、牡蠣料理店大いに忙し。店に捨てた多くの空殻を集めて小児が積み上げ、その上に蝋燭をともし、行人に一銭を乞いてその料とす。定めて杓子貝に近いもの故だろう(チャンバースの『ブック・オヴ・デイス』2巻122頁。ハズリット『諸信および俚伝』2巻344頁)。

平凡社版『南方熊楠全集』2巻P434のサンチアゴ大尊者(十二使徒の大ヤコブ)の図のもととなった図版が載っている。
このページには、しおりがはさんであったり、字を書き込んだりしている。
今から100年も前にサンティアゴ・デ・コンポステーラと熊野古道のことを記した熊楠。
まさか100年後に田辺市とサンティアゴ・デ・コンポステーラ市が観光協定を結ぶとは思ってもいなかったでしょう。
いや、予想していたのかな?
【くまちゃん】
by kumagusu-m | 2014-05-16 15:57 | その他